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2015/05/10
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

言葉一つで私たちは嬉しくなったり,悲しくなったりするものです。
先日,私は中山寺に修行の為,大阪伊丹空港まで飛行機で移動しました。その飛行機の中での事でした。離陸して30分くらいした時に機内サービスで飲み物が出てきました。キャビンアテンドさんがメニューを持って来て,何か召し上がりますか?と声をかけて来ましたので私はジュースをお願いしました。私は通路側に座っていましたので先に声をかけて頂きました。窓側には50才くらいのサラリーマン風の方が座っていて,キャビンアテンドさんが何かお飲み物はいかがですか?と言うと,言葉を待たずして,いらん!(要らないという意味)と叱ったような口調で言ったのです。言い方がとても強い口調だったので私はこれはまずい風が流れるなと思いました。しばらくするとキャビンアテンドさんが小さな竹製のお盆にあめ玉を持っていかがですか?と言って回って来ました。
私の隣にいる方は怒ったような口調で,いらんと言っているだろうがと,またしても無愛想な言い方をしていました。横にいる私まで嫌な気分になりました。私はいつも受けるよりも断り方に気を遣います。必ず要りません。有り難うと言って断ります。
昔,私がお好み焼きの店をやっている時,大島紬の仕事をしておられる女社長が来られまして,仕事の出来る人は断り方の上手な人の事を仕事が出来る人だと教えてもらった事を思い出しました。以来,私は最後に有り難うと言うようにしています。
普段の生活の中で人に物事を頼んだ時にある人は,この品物はどこに置きましょうかと言った時,そこに置いていてと言うだけの人が意外と多いようですね。私は有り難う。そこに置いていてくださいと必ず言うように心がけています。有り難うと一言言うだけで相手も自分も気分が良くなる事に気が付いています。皆様も有り難うという一言を言葉の最後に言えば雰囲気が良くなる事に気付きましょう。
以前,私は道を歩いていた時,車にひかれて壊れかけの携帯電話を見つけました。黒い携帯電話でシールが貼ってありましたので,たぶん若い人の物だと思いました。すぐに警察に届けに行ったところ,50才くらいの警察官の方が対応してくれました。でもその方は本当に落ちていたの?本当かどう考えても気分が悪くなる言い方をされました。少々の事は我慢するのですが,その時は私は警察官の方に言いました。「分かりましたでは。私は今から落ちていた所に置きに行って来ます」とムッとして言ったら,横にいた若い警察官の方が「私が対処します」と手続きをしてくれました。その夜は気分が悪いでしたが,2日後に大学生からお礼の電話を頂き,やっと気分が良くなりました。
有り難う。ご苦労様、お蔭様で・・・こんな簡単な言葉をいつも使えるように心がけたいですね。

2015/04/23
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

最近はよく父の事を思い出します。
父は64才で他界しました。大阪生まれで大阪育ちでした。住友金属を55才で定年退職して,すぐ鹿児島に帰って来ました。
私は父の事が嫌いで父と会ったり,話をする事を出来るだけ避けてとおるようにしていました。父は遊び人で44才から10年間,色々な遊びをして母を悲しませていたからです。家にはお金を入れないので,母は泣きながら自分の大切な着物や指輪を売って私や妹を育ててくれました。高校に行きたいと父に言った時,父は精神的に苦しかったのでしょう。私は高校に行かせてもらえなかったのです。なぜならば家にお金が無くて,仲の良かった友だちと一緒に高校に行こうと話していたのですが,私は父の反対が強く諦めていました。当時6帖一間に5人暮らしていましたので,自分の感情を出す所は無くて私は住んでいるアパートの裏で夜一人で泣いていました。その頃は電話も無く,まだ友だちとは学校で話す事しか出来ませんでした。
私は諦めが悪いのか,すぐにラムネやジュースを作る会社でアルバイトをして高校の受験料を700円頑張って作りました。先が見えない受験でしたが、合格通知が来た時は苦しみました。母も働いていましたので教科書は母が買ってくれました。その時,自分の子供は絶対大学には行かせたいと考えました。お金が続かずに1年で辞めてしまい,お金のもうかる歌手へ進みました。父の給料は12000円,私の給料は7000円でした。アパートの家賃が確か500円くらいだったと思います。
それから9年後,私は結婚して3年後に鹿児島へ帰って来ました。父は62才で肺ガンを患い3ヶ月後に他界しました。私は毎日40分かけて病院へ足を運びました。入院するまでは父とまともに話をする事も無かったのですが,入院してからはよく話をしました。お医者様から余命3ヶ月と言われ,もし父が亡くなったらこのままでは後悔しながら生きるのだなぁーと考えた時,このままでは駄目だと考えました。
父は私に小説を2冊買って来て欲しい。明日はタバコを買って来て欲しいと言い,父の希望を叶えてあげました。当時タバコは駄目と言われましたが,病院の裏で重いガン患者は吸っていました。父は私に言いました。「60才を過ぎたらお前は自分の残り時間を意識して生きるだぞ」と。最近になってその言葉の重みが,私の心の中にたくさんあります。
私は60才になった時,声が出なくなり病院に行きましら,喉頭ガンで声帯を取ると言われました。でも大学病院では良性だと言われました。63才の時,心臓にステントを入れました。65才でスキルス性のガンになり,今手術後8年が経ちました。病院からは「まぁ安心して出来るでしょう」と言われています。現在は糖尿病と戦っています。父が生前私に話してくれた60才を過ぎたら残り時間を大切にしろと言った言葉を今は有難く素直に心に刻んでおります。
最後にお父さん,あなたは家の外では仏様のような人でした。私にはとても厳しく,よく殴られたり,蹴りを入れられました。それだけ私を愛していてくれましたね。厳しさの中での愛だったのでしょう。今となっては貧乏でその日暮らしをして当時が懐かしいです。悪い模範をたくさん見せてくれたので私は人を助ける事が嬉しいのです。素直な人間を残り少ない日々を貫き通します。今,生きていたら父さんと二人で旅行したいです。
ありがとう。


2015/04/05
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

皆様はお元気でお過ごしでしょうか?
今年はいつまでも寒さが続き,冬眠したいくらいの気持ちで日々暮らしております。
年々寒くなる様に感じております。昨年は大阪,屋久島へ修行に行きましても一日でも早く鹿児島に帰りたいと思い,早く帰って来ます。
私が成人した時,両親と一緒に休みを利用して5日くらい鹿児島に墓参りに帰って来ました。その当時は桜島が月に一度くらい爆発していまして,爆発するたびに外に出て桜島の爆発を見ていたのを思い出しております。県外の皆様,今は多い時で1日に5~6回爆発する時もあります。今はドカンと音がしますと,洗濯物を家に入れたり,窓という窓は閉めます。2,3時間しますと鹿児島の人たちは火山灰が舞い上がらないように家の前に水を撒きます。
私が鹿児島に帰りたいと決めたのは2つの理由があります。1つは以前にもコラムに書きましたが,娘が尼崎市で小児ぜんそくにかかった事です。もう1つは妻の実家が指宿にありまして墓参りに行った時の事でした。指宿の田んぼのあぜ道に大根が無造作に置いてありました。それも弓上に曲がった大根でした。私は立ち止まって大根を見ていると一人の老人が「大根が欲しいのか?」と言いました。私は母親に買って帰ろうかと「一本いくらですか?」と聞きますと「その大根は商品にならないから欲しいだけ持って行きなさい」と言われてびっくりしました。私たちは兵庫県尼崎に住んでいましたが,見ず知らずの人から親切を受ける事はありませんでした。
女房の家は入口の戸にカギは掛けておりません。家の前にはビールがケースに入ったまま置いてあり,小屋には梅干,味噌,しょうがの酢漬け,じゃがいもその他野菜がたくさん置いてあり,義母は私の母に持ちきれないくらいお土産を持たせてくれました。
鹿児島の親類の皆様も心からもてなしを受け,私はいつの日か愛と優しさという宝物があふれている鹿児島に帰ろうと心に決めていました。それから9年後に鹿児島に帰って来ました。今はどうでしょう。桜島は一日に何回も爆発するし,家の前に贈り物が届いていると無くなるし,コンビニ強盗が私の家の近くで2件あるし,昔は家の前に出て夕涼みをされて声を掛け合っていましたが,今は家の前で夕涼みをする人は誰もおりません。以前とは反対の世の中になってしまいました。
私は子供が大好きなので声を掛けると子供の親からにらまれました。私たちはどこかに大切な忘れ物をしてきました。思いやりや優しさはどこにいってしまいましたか?いつも自分に問いかけて生きております。
会社勤めの方は男性でも女性でも自己中心的な人が多くて陰湿なイジメがあるそうです。世の男性の皆さん,女性にイジメられて生きるのは,ちょっと淋しいですよね。何とも薩摩隼人が奥様に頭が上がらないのはいただけません。

2015/03/15
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

それは2月13日の事でした。鹿児島発14時の飛行機で大阪に行きました。
次の日に中山寺へ皆さんの健康祈願と修行するためです。尼崎のホテルに16時頃着いて,近くの商店街に買物に行っておりました。自転車がたくさん放置されている所を通る時,ひげ面の外人とチラッと目を合わせました。すると,その外人は私に話し掛けてきました。英語で「私の顔を憶えている?」と言っていたのですが,私は「知らないよ」と言って行こうとすると財布の中から写真を出して,「これ僕の友だちだよ。あなた知っているでしょ」と私に見せました。そういえば10年くらいだったと思いますが,イランから日本に流れて来て,露店でピアスやブレスレットを売っていた人の写真でした。私はもう話し掛けてきた外国人の名前すら忘れていたのですが,ヤラン君はイランに帰って材木屋で働いていて,ヤラン君の部屋には私と写した写真を4枚くらい貼ってあると以前,他のイラン人から聞きました。彼はヤラン君の話をしばらくしていましたが「今,お金が無いので私の家に連れて行って欲しい」と言いましたが,私は彼を信じる事が出来ないので断りましたら「お金が無いので食事をしたい」と言いましたので二人で吉野家で牛丼を食べ,コーヒーを飲み20分くらいで別れました。
ここまで皆様だったら私のお人好しに一笑して終わりだと思うでしょう。私は名前も知らない人に何も助けてあげられなかった事を反省する心とこれで良かったのだと二つの考えがずっと頭に残っていました。殺伐とした世の中,数千円の事で殺人事件があったりします。恐ろしい世の中なのでイラン人の方が事件を起こさないかとても心配しました。
私も海外に出ます。色々な国で親切にされます。ある時は40分くらいホテルから空港迄タクシーに乗ったのですが,タクシーの運転手は無料にして頂きました。ベトナムでは服を買ったら,もう一枚無料で貰いました。別の国では靴を買ったらディナーに招待されて,初めて会う人から多くの優しさを受けました。一回ではなく何回も親切や優しさを受けます。私の心の中では,イラン人の人とは以前何回か会っているのに牛丼とコーヒーしか与えられなかった事に苛立ちを感じます。友だちに話すと「もう十分でしょう」と言われました。受けた恩は大きいのに人に返した恩は小さすぎます。
以前,私の尊敬するお寺の住職さんに教えられました。優しさはいくらしてもまだ足りないよ。先祖供養もいくらしても足りないとね。
1週間くらいボーッとする時間があれば,あのイラン人は今,何をしているかなと考えていました。これが私の優しさなのでしょうか?お節介なのでしょうか?
私が高校受験で合格した時,アルバイト先の社長さんの息子のお兄さんは大学生だったのですが,私に綺麗な靴と学生帽を買ってくれました。今の私は心を与える事しか出来ません。心を与えるという事は自分の時間とそれをする為の労力(体)を使っております。母は私に教えました。人の舌は場所によっては味が違うと。
今は何でも有りの世の中になっています。真実は1つしかないのですが,今でも悩みながら生きています。皆様も手前で物事を考えながら生きていたら後悔ばかり後からくっついてきますよ。

2015/03/07
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

人形や祈願用紙を持って私は毎月,益救神社に皆様の健康とお願い事をしに屋久島に行きます。
昨年10月くらいまでは山登りのお客様がたくさん来ておられました。世界遺産になってからは外国のお客様もたくさん見かけたのですが,最近の屋久島は少し淋しいです。
私はプラス思考なので今,自分を振り返るのにはまたとないチャンスだと思っております。
世間を見ていますと,何の罪も無い将来有望な子供たちや大きな智恵を持ったお年寄りが簡単に殺されるのを聞きますと何と切ない世の中になったのかと思い,心が折れそうになります。
今,世間では叱られたい若者がいて,1時間に1,000円から5,000円払って叱られる若者が多いとテレビで言っていました。
皆様考えてください。お年寄りは同じ事を何回も言っているのでうるさいと思われますが,私はお年寄りと話す事は好きです。お年寄りはゆっくりとした口調で何回も同じ事を言いますが,私はそんな時は自分の考え方とお年寄りの長い経験談を自分のものさしで計りながら聞いています。
昨年末に89才の少し痴呆の入った女性と話しました。話し方はトロトロと話されますが,私は学びました。
① 少しの事で腹を立てるな。
② なってしまった事はもう仕方がないでしょ。
③ 何事もすぐに諦めたらいけないよ。
私にとって大きな大きな収穫でした。
今の若い人は本当に優しいのですが,ゲームやパチンコをして人とのコミュニケーションが下手くそと考えました。私は観光客の少ない屋久島に行って,神社で長い時間,自分を探しに行きます。殺伐とした世の中と皆さんは思われますが,会社で学校で家庭で自分ひとりになる時間は少ないと思います。
今は寒いので海に行きましても車の中から沈みゆく夕陽をいつまでも見ていたり,静かな神社で鳥の鳴き声を聞きながら自分探しをしています。若い人と話をしても「行きたいのだけど時間が無い」と言われます。89才のおばあさんは「思っていても何も始まらないよ。私は若い頃はあちこちで行きました」と言いました。遠くでなくてもいいです。今,文句が言える自分に感謝する事が自分の出発(旅立ち)の第一歩ではないでしょうか?
私はお医者様から言われました。「長谷川さん。あなたはガンが転移して体にはまだガンが有りますよ。今度再発したら保証は出来ませんよ」と。ガンの再発を恐れて生きていません。朝起きた時,元気な自分と神様にお礼を言いながら生きています。
屋久島は本当に何も足さない静かな所です。今年は皆様も自分探しの近場の場所に行かれる事を心から望んでいます。寒い日が続いていますので,風邪などをひかないよう頑張ってくださいますように・・・。

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