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2015/04/23
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

最近はよく父の事を思い出します。
父は64才で他界しました。大阪生まれで大阪育ちでした。住友金属を55才で定年退職して,すぐ鹿児島に帰って来ました。
私は父の事が嫌いで父と会ったり,話をする事を出来るだけ避けてとおるようにしていました。父は遊び人で44才から10年間,色々な遊びをして母を悲しませていたからです。家にはお金を入れないので,母は泣きながら自分の大切な着物や指輪を売って私や妹を育ててくれました。高校に行きたいと父に言った時,父は精神的に苦しかったのでしょう。私は高校に行かせてもらえなかったのです。なぜならば家にお金が無くて,仲の良かった友だちと一緒に高校に行こうと話していたのですが,私は父の反対が強く諦めていました。当時6帖一間に5人暮らしていましたので,自分の感情を出す所は無くて私は住んでいるアパートの裏で夜一人で泣いていました。その頃は電話も無く,まだ友だちとは学校で話す事しか出来ませんでした。
私は諦めが悪いのか,すぐにラムネやジュースを作る会社でアルバイトをして高校の受験料を700円頑張って作りました。先が見えない受験でしたが、合格通知が来た時は苦しみました。母も働いていましたので教科書は母が買ってくれました。その時,自分の子供は絶対大学には行かせたいと考えました。お金が続かずに1年で辞めてしまい,お金のもうかる歌手へ進みました。父の給料は12000円,私の給料は7000円でした。アパートの家賃が確か500円くらいだったと思います。
それから9年後,私は結婚して3年後に鹿児島へ帰って来ました。父は62才で肺ガンを患い3ヶ月後に他界しました。私は毎日40分かけて病院へ足を運びました。入院するまでは父とまともに話をする事も無かったのですが,入院してからはよく話をしました。お医者様から余命3ヶ月と言われ,もし父が亡くなったらこのままでは後悔しながら生きるのだなぁーと考えた時,このままでは駄目だと考えました。
父は私に小説を2冊買って来て欲しい。明日はタバコを買って来て欲しいと言い,父の希望を叶えてあげました。当時タバコは駄目と言われましたが,病院の裏で重いガン患者は吸っていました。父は私に言いました。「60才を過ぎたらお前は自分の残り時間を意識して生きるだぞ」と。最近になってその言葉の重みが,私の心の中にたくさんあります。
私は60才になった時,声が出なくなり病院に行きましら,喉頭ガンで声帯を取ると言われました。でも大学病院では良性だと言われました。63才の時,心臓にステントを入れました。65才でスキルス性のガンになり,今手術後8年が経ちました。病院からは「まぁ安心して出来るでしょう」と言われています。現在は糖尿病と戦っています。父が生前私に話してくれた60才を過ぎたら残り時間を大切にしろと言った言葉を今は有難く素直に心に刻んでおります。
最後にお父さん,あなたは家の外では仏様のような人でした。私にはとても厳しく,よく殴られたり,蹴りを入れられました。それだけ私を愛していてくれましたね。厳しさの中での愛だったのでしょう。今となっては貧乏でその日暮らしをして当時が懐かしいです。悪い模範をたくさん見せてくれたので私は人を助ける事が嬉しいのです。素直な人間を残り少ない日々を貫き通します。今,生きていたら父さんと二人で旅行したいです。
ありがとう。


2015/04/05
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

皆様はお元気でお過ごしでしょうか?
今年はいつまでも寒さが続き,冬眠したいくらいの気持ちで日々暮らしております。
年々寒くなる様に感じております。昨年は大阪,屋久島へ修行に行きましても一日でも早く鹿児島に帰りたいと思い,早く帰って来ます。
私が成人した時,両親と一緒に休みを利用して5日くらい鹿児島に墓参りに帰って来ました。その当時は桜島が月に一度くらい爆発していまして,爆発するたびに外に出て桜島の爆発を見ていたのを思い出しております。県外の皆様,今は多い時で1日に5~6回爆発する時もあります。今はドカンと音がしますと,洗濯物を家に入れたり,窓という窓は閉めます。2,3時間しますと鹿児島の人たちは火山灰が舞い上がらないように家の前に水を撒きます。
私が鹿児島に帰りたいと決めたのは2つの理由があります。1つは以前にもコラムに書きましたが,娘が尼崎市で小児ぜんそくにかかった事です。もう1つは妻の実家が指宿にありまして墓参りに行った時の事でした。指宿の田んぼのあぜ道に大根が無造作に置いてありました。それも弓上に曲がった大根でした。私は立ち止まって大根を見ていると一人の老人が「大根が欲しいのか?」と言いました。私は母親に買って帰ろうかと「一本いくらですか?」と聞きますと「その大根は商品にならないから欲しいだけ持って行きなさい」と言われてびっくりしました。私たちは兵庫県尼崎に住んでいましたが,見ず知らずの人から親切を受ける事はありませんでした。
女房の家は入口の戸にカギは掛けておりません。家の前にはビールがケースに入ったまま置いてあり,小屋には梅干,味噌,しょうがの酢漬け,じゃがいもその他野菜がたくさん置いてあり,義母は私の母に持ちきれないくらいお土産を持たせてくれました。
鹿児島の親類の皆様も心からもてなしを受け,私はいつの日か愛と優しさという宝物があふれている鹿児島に帰ろうと心に決めていました。それから9年後に鹿児島に帰って来ました。今はどうでしょう。桜島は一日に何回も爆発するし,家の前に贈り物が届いていると無くなるし,コンビニ強盗が私の家の近くで2件あるし,昔は家の前に出て夕涼みをされて声を掛け合っていましたが,今は家の前で夕涼みをする人は誰もおりません。以前とは反対の世の中になってしまいました。
私は子供が大好きなので声を掛けると子供の親からにらまれました。私たちはどこかに大切な忘れ物をしてきました。思いやりや優しさはどこにいってしまいましたか?いつも自分に問いかけて生きております。
会社勤めの方は男性でも女性でも自己中心的な人が多くて陰湿なイジメがあるそうです。世の男性の皆さん,女性にイジメられて生きるのは,ちょっと淋しいですよね。何とも薩摩隼人が奥様に頭が上がらないのはいただけません。