最近はよく父の事を思い出します。
父は64才で他界しました。大阪生まれで大阪育ちでした。住友金属を55才で定年退職して,すぐ鹿児島に帰って来ました。
私は父の事が嫌いで父と会ったり,話をする事を出来るだけ避けてとおるようにしていました。父は遊び人で44才から10年間,色々な遊びをして母を悲しませていたからです。家にはお金を入れないので,母は泣きながら自分の大切な着物や指輪を売って私や妹を育ててくれました。高校に行きたいと父に言った時,父は精神的に苦しかったのでしょう。私は高校に行かせてもらえなかったのです。なぜならば家にお金が無くて,仲の良かった友だちと一緒に高校に行こうと話していたのですが,私は父の反対が強く諦めていました。当時6帖一間に5人暮らしていましたので,自分の感情を出す所は無くて私は住んでいるアパートの裏で夜一人で泣いていました。その頃は電話も無く,まだ友だちとは学校で話す事しか出来ませんでした。
私は諦めが悪いのか,すぐにラムネやジュースを作る会社でアルバイトをして高校の受験料を700円頑張って作りました。先が見えない受験でしたが、合格通知が来た時は苦しみました。母も働いていましたので教科書は母が買ってくれました。その時,自分の子供は絶対大学には行かせたいと考えました。お金が続かずに1年で辞めてしまい,お金のもうかる歌手へ進みました。父の給料は12000円,私の給料は7000円でした。アパートの家賃が確か500円くらいだったと思います。
それから9年後,私は結婚して3年後に鹿児島へ帰って来ました。父は62才で肺ガンを患い3ヶ月後に他界しました。私は毎日40分かけて病院へ足を運びました。入院するまでは父とまともに話をする事も無かったのですが,入院してからはよく話をしました。お医者様から余命3ヶ月と言われ,もし父が亡くなったらこのままでは後悔しながら生きるのだなぁーと考えた時,このままでは駄目だと考えました。
父は私に小説を2冊買って来て欲しい。明日はタバコを買って来て欲しいと言い,父の希望を叶えてあげました。当時タバコは駄目と言われましたが,病院の裏で重いガン患者は吸っていました。父は私に言いました。「60才を過ぎたらお前は自分の残り時間を意識して生きるだぞ」と。最近になってその言葉の重みが,私の心の中にたくさんあります。
私は60才になった時,声が出なくなり病院に行きましら,喉頭ガンで声帯を取ると言われました。でも大学病院では良性だと言われました。63才の時,心臓にステントを入れました。65才でスキルス性のガンになり,今手術後8年が経ちました。病院からは「まぁ安心して出来るでしょう」と言われています。現在は糖尿病と戦っています。父が生前私に話してくれた60才を過ぎたら残り時間を大切にしろと言った言葉を今は有難く素直に心に刻んでおります。
最後にお父さん,あなたは家の外では仏様のような人でした。私にはとても厳しく,よく殴られたり,蹴りを入れられました。それだけ私を愛していてくれましたね。厳しさの中での愛だったのでしょう。今となっては貧乏でその日暮らしをして当時が懐かしいです。悪い模範をたくさん見せてくれたので私は人を助ける事が嬉しいのです。素直な人間を残り少ない日々を貫き通します。今,生きていたら父さんと二人で旅行したいです。
ありがとう。