それは2月13日の事でした。鹿児島発14時の飛行機で大阪に行きました。
次の日に中山寺へ皆さんの健康祈願と修行するためです。尼崎のホテルに16時頃着いて,近くの商店街に買物に行っておりました。自転車がたくさん放置されている所を通る時,ひげ面の外人とチラッと目を合わせました。すると,その外人は私に話し掛けてきました。英語で「私の顔を憶えている?」と言っていたのですが,私は「知らないよ」と言って行こうとすると財布の中から写真を出して,「これ僕の友だちだよ。あなた知っているでしょ」と私に見せました。そういえば10年くらいだったと思いますが,イランから日本に流れて来て,露店でピアスやブレスレットを売っていた人の写真でした。私はもう話し掛けてきた外国人の名前すら忘れていたのですが,ヤラン君はイランに帰って材木屋で働いていて,ヤラン君の部屋には私と写した写真を4枚くらい貼ってあると以前,他のイラン人から聞きました。彼はヤラン君の話をしばらくしていましたが「今,お金が無いので私の家に連れて行って欲しい」と言いましたが,私は彼を信じる事が出来ないので断りましたら「お金が無いので食事をしたい」と言いましたので二人で吉野家で牛丼を食べ,コーヒーを飲み20分くらいで別れました。
ここまで皆様だったら私のお人好しに一笑して終わりだと思うでしょう。私は名前も知らない人に何も助けてあげられなかった事を反省する心とこれで良かったのだと二つの考えがずっと頭に残っていました。殺伐とした世の中,数千円の事で殺人事件があったりします。恐ろしい世の中なのでイラン人の方が事件を起こさないかとても心配しました。
私も海外に出ます。色々な国で親切にされます。ある時は40分くらいホテルから空港迄タクシーに乗ったのですが,タクシーの運転手は無料にして頂きました。ベトナムでは服を買ったら,もう一枚無料で貰いました。別の国では靴を買ったらディナーに招待されて,初めて会う人から多くの優しさを受けました。一回ではなく何回も親切や優しさを受けます。私の心の中では,イラン人の人とは以前何回か会っているのに牛丼とコーヒーしか与えられなかった事に苛立ちを感じます。友だちに話すと「もう十分でしょう」と言われました。受けた恩は大きいのに人に返した恩は小さすぎます。
以前,私の尊敬するお寺の住職さんに教えられました。優しさはいくらしてもまだ足りないよ。先祖供養もいくらしても足りないとね。
1週間くらいボーッとする時間があれば,あのイラン人は今,何をしているかなと考えていました。これが私の優しさなのでしょうか?お節介なのでしょうか?
私が高校受験で合格した時,アルバイト先の社長さんの息子のお兄さんは大学生だったのですが,私に綺麗な靴と学生帽を買ってくれました。今の私は心を与える事しか出来ません。心を与えるという事は自分の時間とそれをする為の労力(体)を使っております。母は私に教えました。人の舌は場所によっては味が違うと。
今は何でも有りの世の中になっています。真実は1つしかないのですが,今でも悩みながら生きています。皆様も手前で物事を考えながら生きていたら後悔ばかり後からくっついてきますよ。