私がフリージアの花を知ったのは昭和46年の1月でした。
昭和45年12月末に,12年間勤めていた住友金属を退社して鹿児島に帰って来たのが1月11日で,大きな夢と小さな不安を抱えて人情の厚い鹿児島に帰って来ました。
2月4日にお好み焼屋を開店して何も解らないまま,ただ頑張れば良いという考えで仕事をしていました。商売というものを何も知らずに,朝から深夜まで毎日14時間働いておりました。その頃は29才,どんな無理も出来ました。
私のいとこが10本くらいのフリージアの花をカウンターに飾ってくれまして,フリージアの匂いを嗅いだ時とても良い香りがしてすごく好きになりました。
それから長い間匂いを嗅ぐ事も無く,せっせとお好み焼を焼いておりました。
2月4日は14,000円くらい売り上げましたが,2月5日は4,000円くらい,その次は3,000円というふうに日一日と売り上げが無くなっていき,忘れもしない2月12日は800円くらいしか売り上げがなかったのです。でもその時は勢いがありましたので,明日こそはという気持ちが強くて頑張ったのですが,だんだん家にお金が無くなりまして家賃を支払うのがとてもつらくなりました。その時は2才の長女と生れたばかりの長男がいて,私と女房は店の残り物ばかり食べて,これから先はどうなるのだろうと考えた日もありました。私は6ヶ月間は店を休まないで無休で頑張ると決めていました。毎日ギリギリの生活を送っていました。以前に書きましたが女房は安いテトロンの着物を2枚持っていて,それを毎日代わる代わる着ていました。私は2~300円のTシャツと480円のズボンを3枚くらい持っていて,ほとんど着たきりスズメ状態でした。
何で売り上げが上がらないんだろうと悩んでいる日が続いていたのです。
私は酔っ払いが嫌いで,お客様とのコミュニケーションを避けていたのに気付き,誰とでも話を受け入れる様にしようと努力しました。その頃は自分の嫌いな事を好きになるのはすごいストレスでした。両親は近くに住んでお好み焼屋をしていましたが,毎日20,000円くらい売り上げていましたが,私と言えば3,000円から6,000円しか売り上げられません。悔しいでしたね。今,考えると母は市場に行く途中だと言って,道は反対方向なのに2日に1回くらい店に来て「どや!忙しいか?」と聞きに来ていました。親心として心配していたのでしょう。6ヶ月後に3,000円くらいお金が残ったのを憶えています。お金の無い日が多々あってお金の大切さが身にしみました。色々な紆余曲折があり,私はその年の冬に過労で倒れ5日間寝ていました。その時に女房がフリージアの花を部屋に飾ってくれたのに気付き,私は何度も匂いを嗅いでいました。それ以来,毎年フリージアの季節になればお金に困っていたあの頃を思い出します。そして黙って私の家族の事を陰で心配してくれていた親の心を考えます。
今,若い商売人の方が苦しんで相談に来られます。私は食べる物が無い時がありました。でも共働きしようとか,店を閉めようとか逃げ道を作りませんでした。「継続は力なり」そんな言葉を今も自分に言い聞かせながら,人様に迷惑を掛けない様生きています。観音登光会のベランダ,私の家のベランダに赤や白,黄色のフリージアがいつも良い香りを与えてくれています。若い皆様,感謝の気持ちを忘れないでください。今の世の中,いつ何が起きてもおかしくない世の中です。建て前ばかりの世の中で覚悟して頑張って欲しいのです。