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2014/03/25
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

2月20日から私は,34年間付き合って頂いている友人の家入社長と付き合って13年経つ今,勢いのある松﨑社長と3人で寒さを逃れて台湾にお参りに行きました。龍山寺というお寺で,観音様をお祀りしている所です。
台湾は12度と寒いでした。私たちは2月20日から2月24日までの修行でしたが,夜は6度しかなくてとても寒いでした。22日に家入君,松﨑君が行ったことの無い淡水(たんすい)という景色のすばらしい所に電車で40分かけて行きました。行きも帰りも台湾の優しい若者が私に席を譲ってくれました。台湾人は日本人にとても優しいです。私は台湾に行くと,懐かしい気持ちになり疲れていた心がリフレッシュできるのです。
電車の中で席を譲ってもらって一人で考えていました。私は17才の頃,朝から夜まで働いていました。一緒に住んでいた祖母が口癖のように,大阪の難波にある「いづも屋」に行ってまむし丼(うな丼)を食べたいと言っていましたので,阪急電車で大阪梅田に行き,それから地下鉄で難波に祖母を連れて行きました。夕方6時くらいで電車はとても混んでいました。祖母は82才で足が悪かったのですが,尼崎から難波まで可哀想でしたがずっと立っていました。難波に着いた時,祖母は疲れたのでしょう,額に汗をびっしょりかいていました。15分くらい歩いて「いづも屋」でまむし丼(うな丼)を全部食べて,「おいしかった。おいしかった。」とずーっと喜んでいました。帰りに大阪から尼崎まで電車に乗った時,若いお兄さんが祖母に席を譲ってくれました。祖母も私もすごく嬉しかったのです。17才の私はそれ以来,お年寄りが電車に乗って来られますと,すぐに席を譲ります。
祖母は電車の中で,大きな声で私に言いました。「勉ちゃん。人に親切をたくさんすると,あんたが年寄りになった時,人からいっぱい親切を受けるよ」と。
私は恥ずかしかったのですが,その時の祖母の言葉を胸に刻んで今でも思い出しております。
家入君は19才から付き合ってもらっておりますが,一度もケンカをした事がありません。私は家入君が良くなって欲しいと思って,彼の若い時は嫌味ばかり言ってきました。家入君はそれでも私の言う嫌味を我慢強く聞いていました。松﨑君は私が怒っても受け入れてくれます。私は絶対に人前では泣かないのですが,一度だけ人前で泣きました。家入君の結婚式の日です。お金が無いのに一生懸命ささやかな結婚式の為頑張ったからです。
話は戻りますが,祖母が50年前に行なった親切を今,皆様から受けています。最近,一緒に家入君や松﨑君とよくお参りをしますが,二人は私を親のように大切にしてくれます。彼等も行動や私の言う事を守って素晴らしい社長になっています。家入社長,頑固を直してください。松﨑社長,自分の親にも優しくしてあげてくださいよ!
私に席を譲ってくださったお兄さん,あなたは将来きっと素晴らしいリーダーに成られると信じています。今でも人に親切にしてあげる事は自分に親切にしてあげる事なのです。私はそう信じながら一生懸命,老体にムチを打ちながらプラス思考で生きています。

2014/03/10
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

良平君(仮名)は39才熊本県出身です。
彼は鹿児島大学に行っていましたが,今の自分をもっと変えたいと言って,2年生の時に鹿児島大学を辞めて福岡の予備校に1年間通い、次の年に京都の一流大学に行きました。
私は鹿児島大学に入学した年にスーパーでアルバイトをしている良平君と仲良くなり,夜中にアルバイトを終えて帰って行く良平君と話をするようになりました。鹿児島は天然温泉が市内に200ヶ所くらいあります。私も良平君も温泉が大好きで,時間が取れると2人で温泉めぐりをしていました。
良平君は京都の大学に行っても2,3ヶ月に1度は大阪で会って食事をしたり,夜の大阪をブラブラ遊んでいたのです。彼は一流の大学に行っていても奢ることなく,気さくな性格の人で,私はとても好意的に付き合ってもらっていました。
親孝行で親には心配を掛けない。自分の事は自分で何でもやる面白い人でした。大学を5年かけて卒業して就職せず,1年間は土方をして100万円貯めてアジア,中東,アフリカを回っていたそうです。
1月に熊本から良平君のお母さんが私の所に来られて,「私の家族は主人と長女,良平,私と4人家族です。良平のバカヤローは今,ガンになって福岡の病院に入院しています」と言われ,良平君がいつも私の事を話していて,私がガンを克服したので自分もガンが治れば私に会いに行くと言っているそうです。お母さんは豪快な方で65~67才くらいに見えます。大きな目から涙を流され,拭おうともせずに泣きながら,「あの息子は親に全く苦労をかけてくれなかった」とガハハと笑っておられたのです。
良平君は頭がよいのに,アルバイトは体を使う肉体労働ばかりする変わった人でした。若い時は体を使い,年老いた時は頭を使って生きるという良平君です。一緒に温泉に行っても私の背中を流してくれる優しい人です。私が6年前にガンを患った時,インドに行ってガンジス河で水行をして祈ってくれました。彼のお父さんが糖尿病になった時はオーストラリアの木の上で3日間祈ったそうです。私がやりたいと考えそうな事を良平君は次々とやる,羨ましい人なんです。
福岡の病院を聞いてもお母さんは教えてくれませんでした。私はお医者様の友だちがいますので調べれば分かると思いますが,調べないでいる愛もあると考えます。今年の夏くらいには,ひょっこり私の家に来る人だと信じています。とんでもない自由人の良平君のお母さんも豪快な人でした。私はつらくてお母さんの心をどれくらい理解できているでしょうか?
私は最近,心が痛くて気合が入っていません。1人でガンと闘っている良平君の姿が浮かびます。御両親の気持ちを分かろうとすれば私は泣いています。親の近くで治療をしない良平君を考えると,私は少し分かります。良平君が病気快気すれば,また1人でさすらいの旅に出ることでしょう。
私の体がもっと軽くて自由に動けば,私もさすらい人になって妻や子供たちをハラハラさせることでしょう。
元気になったら南の島にいきなさい。良平君はこのコラムを読んでいるはずです。皆様にも訴えたいです。人の言う事はよく聞きなさい。後に返れない人生ですからね。