過去の投稿

あなたは現在 2012年6月 の投稿をご覧頂いています。
2012/06/28
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

皆様,いつも私のサイトを見て頂き,有難うごさいます。私は6月20日から台風4号が来ている中,台湾に4泊5日で行ってきました。昼の12時45分,鹿児島から羽田経由で夜の9時に台湾の松山空港に着きました。
松山空港は台風5号が上陸しているのと同じ時刻でした。雨は小降りでしたが,風が強くて蒸し暑かったです。昨年11月に知り合った陳さんが空港に迎えに来て頂いていたので心強いでした。お友だちのシンさんも迎えに来てくれました。私は鹿児島を出発する迄,皆様から70才を過ぎたおじいさんが1人で台湾に行くなんて考えられない。やめなさいと随分たくさんのお友だちから反対されましたが,どうしても気持ちが行くバージョンになっていましたので,無理を押して行きました。飛んでいる長谷川とか,無茶をする長谷川とか大阪の友だち等は,年が年だし,心臓も悪いし,もし疲れてガンが再発したらどうする!有難いお言葉ばかり頂きました。

私は19才の頃より1人で旅をするのが好きでした。自分が弱虫である事を知っていましたので,日本のあっちこっちに1人で旅行をして,ストレスを解消していたのかもしれません。北海道と東北以外は全部行かせて頂きました。
20才の時に知り合った国沢恒彦さんという友だちの影響を受けています。先日,台湾に行く前に電話しましたが,電話を取ってくれなかったし,また電話も掛かってこなかったです。国沢さんは私より2つ年下で,長い間連絡を取り合わなかったですが,昨年私のサイトを見つけて連絡をもらい,一緒に食事をしましたが,今は半年位音信不通です。でも彼が20才の時,急に信州に行くと言って夜汽車で長野県をウロウロ,お金も持たずに3ヶ月間消息不明な人でした。後で聞きますと,旅館の食事を運んだり,お客様の布団を敷いて働いていたそうです。私は私でパッと考えるとすぐに船に乗って四国や新潟や山陰を回っていました。

こんな老人になって,また若い時のような気持ちに帰って1人でチケットを買って台湾に行くのは理由がありました。
ガンになられた患者様は毎日朝起きたら,ああ,今日も元気で目覚めて良かったと思うそうです。この5年間,毎朝実感しながら私も生きてきました。4月5日に定期健診に行きましたら,お医者様からリンパ節が増大しているので,ガンの再発も考えられると言われて,ずっと頭から離れないで考えていました。これが私の台湾旅行に行った本当の理由です。7月の初めに,またガンの検査がありますが,もう大丈夫です。
台湾では本当にたくさんの方から親切にして頂いて,1回しか会わなかった李(イ)社長からも大変なおもてなしをしてもらい,美味しいご馳走を食べさせて頂き,私の観光したい所はどこでも連れて行くよと言ってくださいました。その時は予定がありましたので,ホテル迄送ってお別れしました。李社長や数人の方から聞いたのですが,世界で一番好きな国は日本ですとの答えで,私は先人たちが台湾のために尽力を尽くされた努力はすごいものだったと嬉しくなり,また有り難いと心から思わずにはおられません。陳さんを通してシンさんとも仲良くなれました。次回はまた皆様に会いに行きます。台湾の方からニックネームが付きました。「いつもパワフルに飛んでいる日本のおとうさん」と。

7月初めに定期健診の結果が良かったら,また素朴で優しい台湾に行きます。余君,黄君,優しいあなたたちの事は次に書かせて頂きます。いっぱい愛を有難う。
最後に妻が言いました。「これであなたはまた1人で海外を飛びまくるんでしょう・・・」と。

2012/06/23
カテゴリー: ダウンロード
投稿者: admin2

待受け画像-「親父の小言」



待受け画像-「ウソから本当」

2012/06/08
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

6月17日は何の日でしょう?どこの誰かが作ったのかは知りませんが,父の日だそうですね。
私は父が生前の時,父を大切にしていました。父に何をしても,どんなに父に好かれようとしても,いつも母に文句を言っている人でした。
頭の中にはいつも父の顔がありまして,どうしたら父が喜ぶのか?考えているうちに面倒くさくなっていました。
それから間もなく,父は肺ガンの末期だと病院で言われて,車で家から1時間位かかる所に入院しました。父はあと半年の命と言われましたので,私は毎日,見舞いに通うようにしました。
毎日決まった時間に病院に行きますと,父は病院の外に出て私を待っていました。それは私と二人で,タバコが吸えるからでした。
今までは「ありがとう」しか言わなかった父が,だんだん心を開いて「ありがとう。気を付けて帰りな!」と言ってくれるようになりました。
ある時は,長谷川家の先祖はな。武田信玄の家来で,歩兵でも上の方やったんやで!とか。俺の祖父は歌舞伎役者で,嵐又之助という名で芸事をしとったんや。わしのおやじは漁師やったとか。今まで聞いた事もない話を聞かせてくれました。

父はだんだんガンが転移して,腰の骨が半分以下に崩れていました。歩く事がつらそうでした。3月24日に入院して2ヶ月が経っていました。私は父が6ヶ月持たないような気がしてきました。6月12日の夜,大雨が降っていて嫌な予感がしていましたので,私は父の体を全部拭いてやりました。これが父との最期でした。
父は最後に,「ニューギニアにあるラバウルに行ってみたら?」と言いました。「あそこはなぁ,俺が空軍の偵察隊にいた頃,住んでた所で,現地の人たちはとっても情け深い人たちやったから,お前もお金を貯めて行ってみたら?」と言いながら息を引き取りました。6月13日です。たった二人だけの楽しくて,切ない時間でした。
私はいつも父を思い出す時,それが父の日です。昭和55年の話です。