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2012/10/07
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

私が、2年前の9月29日に配信しました「デブ君,愛してるよ」という手記の中に出てくるバスネト・デブラズ君とのその後を書きます。今でも毎月,大阪,神戸に行きますと殆ど伊丹空港に迎えに来てくれます。
デブ君は朝6時から10時迄ホテルのレストランで働き,10時から午後1時迄ベッドメイキングで働いて,午後1時半から学校で授業を受けて,5時半になると又違うホテルのレストランで夜10時迄働いています。デブ君は働き過ぎなので,体調を崩さないか心配しております。
私が3~4日間,あちこちに修行に行きますと,デブ君は時間の許す限り私と同行してくれて,荷物を持ったり,一緒に修行していますので,今ではお経を一緒にあげたりしています。デブ君は3月で26才になり,2年間のお付き合いをしていますと,少しは変わると思うのですが,彼は情緒面では全然変わらず,「今,元気でいれるのは,お父さんのお陰だ」と言っています。外国人は日本に慣れてきますと,ハメをはずしたり,悪い事を教えられたりしますが,デブ君は2年前と変わらず良い人です。私もアメリカ人やヨーロッパ系の友だちともお付き合いをしていますが,アジア系の人との相性が合うようです。
話しは戻りますが,最近,ネパールに住んでいるお父さんが単車で事故を起こしてようで,頭を強く打って入院しています。外傷が無いので、CTスキャンをしたのですが,お父さんは体調が悪くて入院しています。お父さんは47才,私の娘とあまり年が変わらないのです。私も心配していますが,デブ君の落ち込みようを見ていると可哀想です。昔,デブ君はお父さんが嫌でいつも反抗していたようです。20才の時の話ですが・・・。日本に来て3年,親の有難さが今ではよく解るようになって,私と知り合った頃から両親に電話をするようになりましたが,ネパールも不景気で生活も大変そうです。私の知っている限りでは,アジア人は恵まれない人が多く,勉強して将来は豊かな生活を送りたくて日本の専門学校や大学で一生懸命頑張っている人をよく知っています。中には良くない仕事をして学校に行かず,夜も夜中も働いている人も多いと聞きました。ネパールでは今でも電気や水道が無い家があるそうです。私は想像が付きません。

私の所には孫がたくさん来ていまして,浩輝や健太郎,純泰,その他優しい孫がいます。浩輝は坊ちゃんです。広島の大学に行っていますが,仏様に御供えを買って来たそうですが,家に忘れて来ました。健太郎は父の日に私の好きな帽子を買ってくれました。純泰からは何を貰ったんだろう,記憶が有りません。私がバカになったのかもしれません。娘の孫は,父の日や誕生日には頭の毛が3~5本くらいしかない顔を色紙に書いて送ってくれます。デブ君の話に戻りますが,私が神戸に行ってデブ君の家に泊まると言いますと,枕カバーを洗ってくれてあります。私が寝る布団カバーをクリーニングに出してあります。今年の夏は1000円の肌布団を買ってありました。自分の生活は切り詰めて食費を浮かせているそうです。7月にラーメンと焼き飯をおごってくれました。お父さんは鹿児島からたくさんお金を使って来るので,少しでも助けてあげると言います。ほっか弁も食べさせてくれました。本当に質素な生活をしているデブ君,私はデブ君の優しさや愛を食べて幸せな気持ちになります。言葉のキャッチボールは楽しいね。
今迄生きてきて良かったです。私の友だちは朝起きたら,今日も元気で良かった,今日は何をしようかなと考えるそうです。朝一番に病院に行って,昼から1日が始まると話していました。皆様いつも私の健康をお祈りして下さって有難うございます。
何かが起きたらそれを悔やむより,起きた事は仕方ない。その事を引きずらないで生きる方が長生きできそうです。
上手く書けなかったですが,デブ君いつも心配させてくれてありがとう。

2012/09/29
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

先日,私は兵庫県宝塚市にある中山寺に御参りに行くべく、昼の飛行機で大阪伊丹空港に着き、その足で尼崎のホテルに着きました。
夕食を食べに商店街を歩いていますと,上は白い半袖シャツに,下は青の半ズボン姿のお年寄りから話し掛けられました。「もしかしたら,あなたは長谷川君ではないですか?」私は全く覚えが無くて,「自分は長谷川ですが,あなたはどなたですか?」3回くらい言葉を交わしているうちに,彼は「僕は中山(仮名)です」と言いました。私は全然解らないでいますと,「そやなぁ。実は,顔は整形しとるから解らんやろなぁ-」と言ってきました。5~6分くらい立ち話をしているうちに記憶が戻ってきて,彼と喫茶店に行きました。
以前,私が住友金属で働いていた時の友だちでした。彼は若い時はプライドの高い友だちで,2年で住友金属を退社して,自分の人生を変えたくて顔の整形をして,大阪市内で商売をしたり,スナックを経営して結婚も4回失敗し,子供が5人いるけど子供たちから捨てられた事を話して,借金も○千万円あると話しました。身内の人とも連絡が取れず,今は生活保護を受けて食べているそうです。彼は66才。中山君曰く,「肝硬変と腎臓が悪くて,後は死ぬのを待っている」との話でした。
ここで終わればいいのですが,昔,お寺のお坊さんがお説法で皆さんに話された事。「人が10人いたら10通りの物語があるのだよ。だから人様の事を簡単に批判してはいけないよ」と言われたのを憶えています。
私たちはコーヒーを飲んで,軽く食事を済ませて別れましたが,心が痛くて,コーヒーはカップ1杯を飲めませんでした。食事も皿に入っている好きな料理を取る食堂でしたが,私は御飯に卵をかけて食べただけでした。味噌汁と焼き魚には手を付けられません。彼は冷奴と刺身を食べていました。中山君と一緒にいた時間は3時間くらいでしたが,その夜は中山君と違う中山君といたのが不思議でした。(彼は整形手術をしていたので変な感じでした)その夜はホテルで寝付けなかったのです。

この手記を読んで皆様はどう感じられましたか?私は心臓や胃に病気を持ちながらでも,気持ちはいつも前向きです。決してその時(今だけ)が楽しければよいという気持ちにはなれません。若い将来性のある皆様,今を変えていかないと,年を取っても何も変わっていない自分がいますよ。一番大切な武器は「勇気」です。自分にクソーと思いながら生きている今に感謝しながら頑張っています。生きていれば色々有りますので・・・。

2012/09/21
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

いつも私の手記を読んで頂いて有難うございます。
早いもので,私の手記を楽しみに読んでいてくれた西野君はもう高校生になっています。以前は私の書き方が難しいと言って,意味を聞きに電話をしてきていました。昨夜,私は食後でうつらうつらしていますと,携帯電話に西野君からのコールで,最近のコラムは面白くないよ。何回も読み返さないと解らないとのアドバイスです。私は彼を励ます意味で,「西野君が成長していないからだよ!」と言うと,「じゃぁー,先生も勉強しているの?」と切り返してきました。もう高校生になると,自分の考え方が正しいと思っているので,最近の西野君は,私の頭が固いと言ってきます。
西野君の家族は事情があって,山口県から夜逃げをして来ました。御両親は昼も夜も働いて借金を返しているので,一人っ子の西野君との対話がない家族です。登校拒否をしている時に私の所に2年前に来たのです。それ以来,私は孫のように可愛くて,電話でケンカしたり,学校で嫌な事があった時は夕方電話がきて20分くらい話をする仲です。西野君は私の事を友だちのように思っていて,「先生は最近,耳が聞こえにくくなってるね。」とか,「あと何年生きるの?理解するのに時間が掛かるね!もっとしっかりしなさいよ!僕が結婚する迄生きててね!」とたまには頭にくる事も言います。「先生はこの頃,調子に乗っているね。いいかげんにしなさいよ!」キレる事は無いですが,彼は私の事を本当のおじいちゃんだと思っているんでしょう。親が聞いたら恐縮される事でしょう。私は脳に刺激をもらって有難いです。70才を過ぎて,16才の孫と言葉のキャッチボールができる事は嬉しいです。

このコラムを西野君も読む事でしょう。西野君に言いたいです。私の言っている意味を早く解るようになりなさい!友だちと遊んでばかりいないで,自分の勉強もしっかりしろよ!人が良い事はいいのだけど,たまにはノーと言えるようになるんだよ!
今年の4月に君は,チンチンがかゆいので病院に行って薬を貰って来てと頼んだ時,私はすごく恥ずかしかったけど,君が恥ずかしがるので私は冷や汗をかきながら貰って来てあげたでしょ。私の気持ちも解りなさいよ!早く公務員になって両親と私を喜ばせてください。私はまだまだ死なないからね。悪いけど・・・。
君の事を考えると頭にくるけど,私の心のどこかで君が頑張っている姿を願っています。本当に頭にきて,ムカつく君の電話を待っています。私のような年寄りを大切にしてくれてありがとうね。

2012/09/11
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

私が中学校を卒業して,初めて就職したのは大阪の吹田市にあるマホービンを作る会社でした。その時は向学心に燃えていましたから,夜間高校に通っていました。大伍ガラスという会社です。そこに石神常務というおじさんがいて,「長谷川君,6ヶ月は会社を辞めたらあかんで。頑張れや」同僚の東君と2人はとても可愛がってもらいました。
仕事は重いガラスを20cm位の所に運ぶという単純な作業でした。軍手は1日で破れるし,腰は痛いし,先輩のおじさんからは仕事が遅い!といつも怒鳴られていました。それから後に,軍手が破れて私はケガをしてしまいました。
1人で会社の風呂に入っている時に,石神常務の息子さんが入ってきて,頭や体を洗ってくれました。それを父に話すと,「1つ親切を受けたら,2つにして返すのが人間やで。お前も早く人に恩返しをせなあかんで・・・。」と言われました。

それから手の傷も治った頃,石神のお兄さんから,「長谷川君,今度の休みに京都に遊びに行こう」と誘いを受けて,電車に乗って京都に連れて行ってもらいました。石神のお兄さんは,立命館大学の学生でお金持ちの坊ちゃんでした。どこか思い出せないのですが,細い迷路の町屋を入って行って,高そうな料亭に連れて行ってもらいました。きれいな庭を見ながら,孟宗竹の上に乗った桜餅と苦い抹茶を飲ませてもらい,ひと時だけリッチな気持ちになった事を,昨日桜餅を頂いて食べながら思い出しました。
その半年後に私は会社を辞めました。辞める時,石神のお兄さんに挨拶もしないで,辞めた事はとてもつらいでした。再度,会社にお礼に行ったのですが,お兄さんは学校に行っていて会えなかったです。今だったら携帯電話があるのに,その時は家に電話もテレビも洗濯機も無かったです。

今は,食べ物はお金を出せば何でも手に入る世の中で,心の中はどんどん貧しくなっています。人から与えられても当たり前になっていますし,自己中心的な考えになっていて,感謝する心をどこかに忘れて生きている私がいます。桜餅を食べたらいつも石神のお兄さんを思い出します。
私は人様からたくさんの愛を受けてここまできました。思い出がたくさんある私は幸せです。

2012/09/04
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

皆様いつも私のサイトを開けて頂き,有難うございます。
最近は,私が子供の頃はどんな子供だったのか?子供の頃は何を考えて生きていたのか?どうして祈祷師になったのか?と私の手記を読んで興味をもたれる方が多くなっています。有難い事だと感謝しています。

子供の頃は,とても貧しくて,夢を持つよりも母とどうやって今日一日を過ごすか,又何か食べ物が有るか?いつもお腹をすかして生きていました。大きくなったら何の仕事をするか想像もつきませんでした。
小学校に入学しても裸足で学校に行っていました。遠い昔の事なので,確か小学校の4年生になって,下駄を履いて初めて学校に行った事を思い出します。皆様は7~8才の事をよく憶えているよねと言われますが,その時は,物質的な物は何も満たされていなかったから憶えているのです。
やっと買ってもらった下駄を盗まれた時は,悲しくて家に帰れなくて,母からそうとう棒で殴られました。私の母は泣いても,謝っても許してくれる母ではなかったのです。その日の夕食(トマト2個)は,食べさせてもらえませんでした。今だったら,大変な事になっていたでしょうね。母はその時は鬼のような顔をしていましたので,恐ろしかったので憶えています。

母と私は,その下駄を盗んだ人は解っていましたが,母は盗んだ人の家に文句を言いに行かなかったです。今のお母さん方は,怒鳴り込みに行く事でしょう。私が中学生になった時,母に聞きました。「何で昔,下駄を取られた時に文句を言いに行かなかったの?」すると母は,「文句を言いに行くのは簡単だけど,取り返してきてもお前の友達が傷つくやろ。お前は取り返してきても気持ちがよいか?後味が悪いと思うけどな・・・。一番悪いのはお前や!罪を作ったんやからな・・・。」その時にやっと母が,大きくて深い心を持った人だと解りました。
その時以来,盗む人よりも盗まれる自分が一番悪いのだと解りました。母は常に私に言い聞かせておりました。食べ物が無い時は,食べなくてもええんやで。自分が努力しないからな!水でも飲んどきや!
なぜが今の私の中には,このような考え方が体に染み付いてしまったようです。

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