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2013/10/26
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

鹿児島は連日の桜島の降灰で,一日でも早く雨が降って地面に積もった,そして風が吹く度に舞い上がる火山灰が流れるように祈る気持ちで毎日暮らしております。
私は火山灰を毎日吸っているのか,咳が出て息苦しいです。今年の夏の異常な暑さもあって体調の悪い人が多いようです。10月に入ってもまだ暑さは続いています。早く朝,夕方が気持ちよく過ごせますように願っているのは私だけではないですね。
先月末位から若い人たちと電話で話す機会が多くて話していますと,やりがいのある仕事がない,給料が遅れる上によく叱られるという話を聞きます。
28才の妻,子供2人の4人暮らしの若者は給料が16万円です。生活が苦しくて妻も月6万円で働いているそうです。この青年は毎日の生活で夢が無いと言います。1年に一度は家族で旅行に行きたいし,友だちとも釣りにも行きたい。そして自分の時間が欲しいと話します。朝6時に起きて仕事に行き,夜,家に帰って来るのが11時から1時位です。子供とは遊べない,妻との会話も無い本当に彼は大変だと思います。
私も29才で鹿児島に帰って来て食堂を始めました。こちら鹿児島には友だちもいなくて,両親が食堂を経営していまして,その近くで両親と同じお好み焼の店を始めました。両親の店はたくさん売り上げるのですが,私は10分の1しか売れませんでした。朝起きて店を開けるのが嫌で,ため息ばかりついていました。お好み焼の味は大阪で勉強してきましたし,自分なりに自信はあったのですが現実はそんなに甘くなかったです。私は一日に1~2時間の考える自分の時間を作りました。桜島の見える海岸に行き,船が行き交うのを毎日見に行きました。すると,毎日何かが違うという事に気付きました。その当時は桜島が1週間に1度位爆発するのを見て,あっ世の中の何もかもが生きているんだと感じ,私は若い頃,鹿児島に帰って来たら桜島が爆発する姿が見たくていつも期待していました。そこで,ああ逆の発想をすれば良いのか!今,毎日桜島が爆発すれば観光客は喜びますが,生活する私たちは大変だと思いました。家に帰ると妻は毎日同じような服を着ていました。今まで気付かない事でした。口紅は1本しか持っておらず,何年もこの口紅を使っていました。化粧品は数個しか無かったように思います。今まで私は自分の事しか考えていなかった事を恥じました。世間を狭く生きていては,いつまで経っても良くならないと痛切に感じました。私は商売をしているのだからお客様を喜ばす事をもっと考えないと考え,両親の家より大きなお好み焼を作るようにしました。母は今日はいくら売り上げたか?と聞く事を楽しみにしていました。
取りとめの無い文章になりなしたが,知らず知らず流されている自分に気付こう!そのためには自分の時間を作るように!上手くいかなくてもまだ頑張るぞ!という気持ちを持つ事!人様を喜ばせば自分に返ってきて必ず良くなります。かねがね良くない人生を送っていらっしゃる人たちは人の言う事を受け入れていないか,何かをやろうとする時,右足が出ないのではないのでしょうか?流されている事に気付けば答えはでますよ。

2013/10/10
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

先日,私はチャイナエアライン118便で台北から鹿児島に帰って来ました。
鹿児島に着いて飛行機の棚から荷物を降ろす時,「その荷物,私のです」と言われる方がおられ,その方に渡しました。その方は私に「鹿児島の方ですか?」と話し掛けられてからしばらく話しました。その方はアメリカのデトロイトに50年間住んでおられて,20年間シアトルと台湾を行き来しているとの事。名前も聞かなかったのですが,松茸が好きでアメリカに行き,いつも松茸をふんだんに食べていらっしゃるとか。デトロイトに小さな牧場を持って頑張っていたら,3年前に肺ガンになって今,ガンと戦っている事を笑顔で語られました。今はだいぶ良くなってきているとの話をしました。今回,鹿児島に来たのは西郷隆盛さんが好きで色々な書物を読んで念願の鹿児島に来たそうです。命があれば,これからも鹿児島に時々来させて頂きます。よろしくお願いしますと言われました。
デトロイトと言えば,確か車産業が発展している所と記憶しています。今は不景気で町自体がゴーストタウンになっていると聞きました。
その方は元々カナダに住んでおられて毎日,松茸を食べてキングサーモンを釣って生活していると聞きました。
その方の事を書いていませんでした。私より1才年下で71才,身長は私より少し小さくて170cm位だと思います。顔の血色は良く,到底肺ガンを患っているようには見えません。私の中ではこの方も強い気持ちを持っておられるし,今を楽しんでいるかのように見えました。弟や息子のようにしている家入君,毎度,松﨑君も一緒だったのですが,異口同音,先生のように強い人ですねと言っておりました。笑顔の中に謙虚さや強さを感じる方でした。「松茸が好きだから」をきっかけにアメリカのデトロイトに移り住んで牧場を経営して,今は好きな所に行って生きる。それはエネルギッシュな事だと思います。春になればヨーロッパの帰りに,また鹿児島に来ますと言われました。
私は何時になればもっとエネルギッシュに生きられるのだろうか?

2013/09/26
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

私は大阪に住んでいた頃は,友だちの事を「おっさん」と呼び合っていました。大阪ではおじさんの事を「おっさん」と言います。鹿児島では奥さんの事をイントネーションは違いますが,やはり「おっさん」と言います。今年の初め,中山寺に修行に行った帰りに友だちと会う約束をしていまして尼崎で会いました。夕方6時に会って,二人で寿司を食べに行こうという事で寿司屋さんに行きました。友だちは私より3才年上で,75才。今は家の前の庭で自分たちが食べる野菜を作っているそうです。私たちはにぎり盛り合わせを頂きました。寿司屋さんを出たのが7時頃,普通だったら私はコーヒーでも飲みに行きます。おっさんは私にぜんざいの美味しい所があるから一緒に行こうと無理に誘いました。私は今,手記を書きながらニヤニヤ笑っています。手記を読んで頂いている皆様もウワーと思いませんか?夕方に腹いっぱい食べた後にぜんざいの甘いものを想像してください。私も皆様と同じで,お願いそれだけはやめて!と心で叫んでいました。
彼は若い頃から私に食事をおごってもらったら,必ずぜんざいでした。今回も私が食事をおごらせてもらったので,ぜんざいという拷問にあいました。昔から彼は奥さんにお小遣いをあまり持たせてもらえなくて,当時コーヒーより安かったぜんざいを若い私たちにおごり返してくれました。もちろん私は半分くらい食べると,気持ち悪くなりました。私とおっさんの二十歳の青春がここにあった事を再発見しました。若い頃,この友だちと食事に行くのは,ぜんざいを食べさせられるのが嫌でいつも逃げていました。今,50年ぶりにほろ苦い青春を経験しました。その当時はもうこのおっさんと食事には行かないと思ったのですが,おっさんは今,肝臓ガンになっているそうです。
私は神戸の宿泊先に帰る時,電車の中で考えていました。19才で知り合い,京都に夜桜を見に行きました。一緒にビアガーデンに行って肩を組んで歌った事,小豆島にガールハントに行った事,大阪で朝までうろついていた事,たくさんの思い出がこみ上げてきました。おっさんがいるからこんな経験ができるのは有難い事ですね。おっさんは毎日,朝と夕方に散歩をする事が日課だそうです。鹿児島から尼崎に出て来て,奥さんと家を頑張って建てました。おっさんは別れ際に言いました。「死ぬ寸前まで俺の人生は俺のものや。ガンに負けんように生きるわ」電車の中で1人で悲しくも頼もしい言葉を思い出していました。本当は嫌なんですが,このおっさんとあと何回食後のぜんざいを食べにいけるかな?と考えています。もう世の中で皆様のお役に立てない人間ですが,おっさんが言った死ぬ寸前まで俺は俺の時間やで・・・。私はおっさんが経験させてくれる食後のぜんざいを死ぬまで付き合ってあげるからねー。
私とおっさんは現実から逃げる事はもう無いと思います。いくら逃げても現実は追っかけてきます。若い人はよいですね。文句を言ったり,心の中で人のせいにできるから・・・。でも現実を受け入れたら心が前進して楽しく生きられますよ。

2013/09/12
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

平成25年9月8日早朝,4時まで私はやらなければならない事がたくさんあるのにテレビと友だちになっていました。じっとテレビに釘付けになり,今か今かと,東京オリンピックの発表を見守っていました。
私は7年後のオリンピックはもう関係がないと思っていましたから全く興味がありませんでした。ガンの手術をして,あと3ヶ月の命とお医者様から言われ,お陰様で5年4ヶ月生かさせて貰っていますので,7年後は絶対に生きていないと思っていたからでした。
アルゼンチンのブエノスアイレスで朝4時になっても結果は出なかったのです。アナウンサーが5時には結果が出ますと言っていたので,気持ち的に消化不良を起こし,では結果が出るまでと5時20分まで起きていました。その間にプレゼンで日本の関係者の方々が一生懸命にスピーチをされていました。私はその中で滝川クリステルさんがおもてなしの心を話され,それを聞きながら,ああ本当に私たちが忘れている優しさや思いやり,感謝の心が無くなりつつある事を感じました。そしてパラリンピック代表の佐藤真海さんが19才で骨肉腫になり右膝下を切断した事,そして生きている今,神様が私に試練を与えてくださったと英語でにこやかにスピーチされる姿を見て,あと7年,元気で命を貰いながら生きていこうと決心しました。
久し振りにベトナムのハー君から電話がありました。「東京オリンピック開催おめでとう。一緒に見に行きましょう」と言われました。恥ずかしい事ですね。現実をしっかり見ていない自分が・・・。彼は言いました。「僕も思っている事をもっと強く考えて両親を楽にさせてやりたい。家族で食事が一緒にできる事をいつも考えていますと・・・」私は幸福ボケをしているのではと考えています。
外国の友だちから質問を受けました。夜中のコンビニの前で長時間座っている日本の若者たちはあれがアルバイトですか?体が疲れないのですか?アメリカのテレビで見る人たちは少なからずこんなに思っているようです。1964年にあった東京オリンピックは時間とお金が無くて行けませんでした。2020年に開かれるオリンピックを見に行けなかったら私はただのアホですね。たくさんの方々が努力されて勝ち取ったオリンピック。7年後は元気でいる事,時間をつくる事,お金を貯める事に精一杯努力します。皆様は何をどんなに努力をしますか?7年後も愚痴を言いながら人のせいにして,今と同じ生き方ですか?今日よりも明日の事,そして新しい考えを持って生きれば,7年後は楽しい人生を送っている事でしょう。

2013/08/25
カテゴリー: 長谷川手記
投稿者: admin2

いつも私のサイトを開けて頂きまして有り難うございます。
最近は,私の若い頃の事を知りたいので書いてくださいとのリクエストがあります。有難い事です。今日は母から教えられた幼い頃の話を書きます。
私が小学3年生の10月に遠足がありました。行き先は尼崎から宝塚動物園でしたが,遠足代15円が払えず行けませんでした。私はわがままでしたので泣いていましたら,母は笑いながら言いました。「神様はお前がお金持ちの家に生れてきていたら自分でお金を稼ぐ方法が分からず,いつまでも経っても貧乏だから今,貧乏して耐えて人の気持ちが解るようになれと言って教えているんだよ!」と言われました。その頃は私の小遣いは2日に1円貰っていた頃です。今で言えばジュースは5円で買えた頃です。今でも昔の頃を思い出すと,無駄使いはするなと自分を戒めます。
10代の頃,どこか忘れましたが京都のお寺に行った時,お寺のお坊さんが説法されていました。お金は使うものではなくて回すものだ。価値のある使い方をすれば後々で残ってくるという話を聞きました。それから随分後で毎月お参りをする中山寺で偉いお坊様からお金は世間と一緒で丸いタライだよ。自分の方にお金を引き寄せると横から出ていくので,生きたお金の使い方をしていたらお金は必ず残ってくるよと教えられました。私たちはいつもその場では生きたお金の使い方をしているつもりですが,後々に考えてみるとあんな高い買物をしなければよかった。今買わなくてもよかったのに・・・と考えます。特にパチンコや射幸心をそそる物には意地になってお金を使ってしまうものです。あの時1万円負けなければ子供に何か買ってやれたのに・・・という話を聞きます。全て後の祭りですね。
私は何かを買う時は,今必要か?何で今欲しいのか?考えて買うようにしていますが,やっぱり後悔する事が多々あります。年を重ねてきた今は誰かにプレゼントする。人を喜ばせる。そんなお金の使い方をしているので,後悔は少ないです。
今は我慢の時代です。流行に流されず,自分らしくシンプルに生きるようにしてはどうですか?昔,流行の先端を生きている時代が19才頃から23才くらい迄ありました。その頃に買った服や靴はぜんぜん残っていません。今考えると,はかないものです。今着ている服や靴は20~30年前に買った物を着ています。皆さんはカッコいいですねと言ってくれます。
私には遠足に行けなかった事,学生時代に学生服を着れなかった事,子供時代に友だちとお好み焼を食べに行けなかった事,高校に行けなかった事,みんなみんな今のハングリー精神の源になっているのではないかと考えています。努力を続けないと,幸せの後は必ず不幸がくるのですから!そんな気持ちを強く持って生きています。

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